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2021/03/11 東日本大震災から10年。当時何をしていたか

爆風と爆音が自宅まで到達し、この世の終わりを実感させられる

さて本日は3月11日。

言うまでもないと思うですが、東日本大震災が発生した日です。

そして今年は2021年でちょうど10年。

節目の年ということでもあり、例年とは違う様相であります。

自分もそれに便乗して、震災当時どこで何をしていたか、今まで散々地震について記事でも触れて来たのに、それについては今まで全く触れていなかったりするので、節目の10年という事で少し語らせていただくわけでございます。なお、10年前の出来事となるので、記憶が定かではない所もあるかもしれませんがご了承ください。

 

 

 

 

 

2011年3月11日の震災当日、学年末でしたがこの日もいつものように授業がありました。当時10歳で小学4年生の自分は、全ての授業を終えて下校前の清掃活動に取り掛かっていました。

 

確かその掃除も終わりそうな時、雑巾がけをして雑巾を元にあった場所に戻す際に地震に見舞われました。

最初は小さな揺れでしたが、徐々に大きくなってきたのを覚えています。今までに経験したことのない洒落にならないレベルの揺れで結構驚きつつも、不謹慎ながら初めての経験ということで、興奮していたのも当時の心境としてありました。

揺れが続いてる最中何をしていたのかは、ちょっと忘れしまいました。学校で地震にあった際は机の下に隠れるというのが一般的ですが、当時の自分は果たしてそんなことしていたのでしょうかね。

揺れが収まってからは、教室で使っている椅子の上にある防災頭巾を被りつつ、全学年の児童が学校のグラウンドに集合しました。

 

グラウンドに集合した後も何度も余震に見舞われ、比較的大きな余震が来た際には、校内にあるプールの水がバシャバシャと音を立てて、プールサイドは疎か外にまで溢れ出している様子を見たのも覚えています。

このかつて経験したことのない大地震に、恐怖で泣いている児童や始めての経験で興奮している児童等々いましたが、自分はというと先程も述べた通りですが後者に該当しますね(後に相当ヤバい状況であると悟ります)。

 

なんやかんやありつつも自宅に帰る事となりました。

しかし、防災頭巾だけを被りグラウンドに避難してきて、この状況で教室に戻るのは危険であるという事で、ランドセルは教室に置きっぱなしで帰りました。こんな身軽な状態で学校から家に帰るのはもしかしたら初めての事かもしれません。

先生からは「余震に注意してかえりましょう」というような事を言われ、確か防災頭巾を被りながら下校したと思います。帰り道では自宅から外に出てきてると思わしき人が多数見られ、中にはブロック塀が倒壊してしまっている家もありました。

 

そんな事もありましたが、無事自宅に到着しました。

家に帰るとテレビの情報から、宮城県震度7地震があったという事を初めて知り、同時に津波で流されている街の映像を見て、ここで初めて事の重大さに気づきました。

そして、自分の住んでいる家は比較的高い所に位置しているのですが、自宅から外を見てやると、何やら火災が発生しているみたいで、それも規模がかなり大きい火災のようです。

 

その火災というのは、テレビでも生中継されたいたコスモ石油千葉製油所の火災・爆発事故です。

 

現場上空の映像

youtu.be

 

この製油所から自宅までは7km以上離れたところにあったのですが、それでもかと言わんばかりに炎上しているところが見え、黒煙もかなり立ち昇っていました。

 

この火災が発生してからしばらくすると、突然外が瞬間的に真っ赤になり、すぐにとんでもない爆音と衝撃波が到達しました。この爆発で家が地震の初期微動のように細かく揺れ、事故現場から離れているにも関わらず熱すらも感じました。そして爆発の影響で上空に黒煙が蔓延し、まだ日中なのに辺りはうっすらと暗くなっていました。

 

爆発時の映像(1:40秒辺りから)

youtu.be

 

この爆発があった後、自宅よりも爆発の様子が伺える外に行って、その様子を確認しに行きました。

そこに行くと近所に住む人たちが爆発の様子を見ており、中には見覚えが一切ない人すらいました。

そしてその見覚えの一切ない人の中に、明らかに外国出身っぽい男性がいたのですが、どうやら先程の爆発の瞬間をカメラで捉えていたらしいです。

すると、その写真を「スゴイデショ」と不慣れな日本語を使いつつ、僕に見せてきたのです。

確かに写真には爆発の瞬間の様子が激写されており、これは凄いということで納得の感想をこぼしたしたりしつつも家に戻りました。 

 

そして家に戻ってからも度々爆発音がして、あまりにも音が大き過ぎるので耳をずっと抑えていました。先程の爆発音を聞いた後、周囲の音が全然聞こえなくなりその後には耳鳴りもしたぐらいで、いわゆる音響外傷みたいな症状が瞬間的に出てしまったのも覚えています。イメージとしてはゲーセンやパチ屋に長時間滞在して退店した際に、耳が遠くなったという感覚と似ています。

 

そして夜になると暗くなるはずですが、製油所の爆発の影響で上空は真っ赤になり、より終末感を漂わせます。テレビの中継や自宅から眺めて様子を見たりしていましたが、火災は一向に衰える気配がありません。

夜になってからは爆発したりする事はほとんどなくなったかと思います。これにより爆発音に対する不安は薄れましたが、今度は余震が間髪入れずに襲います。もちろんそれ以前にも余震はガンガン発生していましたが、製油所の爆発のせいであまり見向きをしなかったと思います。

何度も襲い掛かる余震と緊急地震速報の音とぽぽぽぽーんのCMのトリプルキル、身体の感覚が麻痺しました。特に余震に関しては、あまりにも起き過ぎて揺れていないはずなのにずっと揺れているような感覚に陥りました。

 

次々と来る余震と緊急地震速報とぽぽぽぽーん、このような状況下で日付も変わり深夜0時を回りました。当時はいい子だったのでもうとっくに寝ているのですが、この日はいつものように寝る事なんてもう不可能でした。

日付が変わってからも、製油所の炎上は先程よりかは収まってはいるものの、未だに視認が出来る程に燃え上がっていました。そして相変わらず、余震に伴う緊急地震速報とぽぽぽぽーんを代表としたACジャパンの各CMは留める事を知りません。その日はずっとテレビとにらめっこして夜を明かしました。

 

夜が明けると東北各地の被害の全貌がテレビより明らかになりました。12日は土曜日でしたので学校は平常通り休みでしたが、仮に平日だった場合でも学校は休みになっていたでしょうね。どのテレビ局でも報道特別番組を実施し、右下では一夜が経っても未だに解除されていない大津波警報津波警報で、今までにない未曾有の大災害であることを思い知らされました。

 

やっとのことで睡眠を取ったのは、確か12日のお昼頃かと思います。 もちろんその間にもガンガン余震が来ていましたが、もう身体の感覚が麻痺して震度3程度の揺れに対しては、なにも抵抗がなくなりつつありました。

 

 

 

 

 

という感じで自身の震災当時の状況を語ってきたわけであります。

震災から今日で10年が経過し、被害が甚大であった東北各地でも徐々に復興が進んでおり、この教訓から災害に対する意識が震災前よりも高くなったのは確かでしょう。

そして日本では、首都直下型地震南海トラフ地震などの巨大地震が逼迫した状態にあります。特に南海トラフ地震に関しては30年以内にほぼ確実に来るとまで言われてるくらいですから、すぐに対応できるようにする準備はもちろんの事、テレビ・家具・食器棚などといった比較的大きな物は倒れないように固定しておくとよいでしょう。

 

 

 

あ、あと、震災時の地震による自宅の被害がどれくらいだったのかを言うの忘れてました。

自分の住んでいる地域は震度5弱の強い揺れを観測しましたが、幸いにも家の中はそこまで散らかっている状態では無く被害は少なかったです(コップ1つが犠牲になった)。

 

あとこれは補足なのですが、コスモ石油千葉製油所の火災・爆発事故の原因は、14時46分に発生した地震ではなく、15時15分に茨城県沖で発生した余震(事故現場の市原市では震度4)によって引き起こされたものなのです。

この火災は鎮火までに10日間も要した大火災でしたが、幸いにも死者はゼロ人だったそうです。